○○さんは飛鳥と名乗る男と、神殿を出ていってしまった…―。
(私は、なぜあのようなことを言ってしまったのだろうか……)
―――――
藤目『……貴方の運命の人はその方なのでしょう。ならば、それを邪魔するわけにはいきませんね。 人の恋路を邪魔するものはなんとやらと……言いますからね』
―――――
藤目「……っ」
胸の奥がぎりっと軋む。
呼吸を整えようとしても、鼓動がそれを阻むほどに大きく鳴り続けていた。
(この症状は、いったいなんなのだろうか……?)
さっきからずっと、胸にどす黒い感情が渦を巻いている。
藤目「……辛い」
不意に口に衝いた言葉に驚いた。
(辛い、だと?)
(この感情は、いったいなんなのだろう?)
眼の前の真っ白な原稿用紙に視線を移すと、頭の中に次々と言葉が浮かび上がってくる。
(この感情を表現すれば……)
考えるよりも先に手先が動き、私はするすると原稿用紙に思いのたけを書き綴っていった。
(こんな感情は初めてだ)
狂おしいぐらいに募る感情を、私はただただ言葉にして書き綴った…―。
…
……
最後の一文を書き終えると、ようやく頭の中の喧騒がやむ。
原稿用紙には、前作とは全く違う作風の小説が出来上がっていた。
主人公の男性はヒロインを愛するがあまりに、その想いの強さで彼女を傷つけてしまっている。
(なんて激しく、醜い物語なのだろう……)
その時、扉が控えめに叩かれた。
(……○○さん?)
声をかけるより先に扉を開けると、そこには彼女が立っていた。
急に扉が開いて驚いたのか、○○さんは目を瞬かせていた。
藤目「……どうぞ」
彼女に会えたというのに、私の心は深い闇に包まれたままだ。
(どうしてあの男について行ったのですか?)
(今まであの男と何を話していたのですか?)
(本当に貴方は、あの男の運命の人なのですか……?)
藤目「……っ」
胸の苦しみを誤魔化すかのように、私は彼女の背を強く抱きしめた。
○○「ふ……藤目さん?」
藤目「……楽しかったですか?」
○○「えっ……」
藤目「あの男といる時の貴方は、とても楽しそうな顔をしていた」
彼女の体が、微かに揺れた。
藤目「何を話していたんですか?」
○○「……」
けれど、答えは返ってこず……
ドクンと、心臓が大きく脈打つ。
藤目「私に言えないことなんですね」
(なぜだ? なぜ、私に言えない?)
(貴方は、私の……)
すがるように彼女の首筋に顔を寄せた時、ぐしゃっと何かが潰れるような音が部屋に響く。
その音は、彼女の手から落ちた袋から聞こえたようだった。
藤目「これは……?」
○○「卵です……オムライスを作ろうと思って」
(私にオムライスを作るために、彼女はここに来たのか……・?)
そう思った瞬間…―。
張りつめていた糸が切れるように、私はゆっくりと彼女を解放した。
藤目「私は、なんて愚かなんだ……貴方は私のために戻ってきてくれたのに」
(なんと私は、醜いんだろう……)
浅ましい自分に意気消沈していると、彼女が遠慮がちに私に問いかけた。
○○「藤目さん、書き終えたんですか?」
その視線の先には、先ほど書き終えたばかりの私の原稿があった。
藤目「ああ、途端に創作意欲が湧いてきまして」
しばらく逡巡した様子を見せた後、○○さんがゆっくりと口を開く。
○○「藤目さん、実は…―」
…
……
(すべてが嘘……?)
○○「ごめんなさい……」
○○さんが、申し訳なさそうにつぶやく。
(○○さんの運命の相手は、あの男ではなかった……)
全身の力がゆるりと解けてくる。
藤目「貴方が謝ることは…―」
その瞬間、私の腹の虫がぐるっと大きな音を立てた。
(○○さんの前で、恥ずかしい……)
頬が熱くなるのがわかる。
藤目「すみません……」
(ほっとした途端に……私はなんてわかりやすい男なんだ)
しばらく、沈黙が訪れて…―。
藤目「ふふ……ははっ!」
込み上げる笑いをこらえきれずにいると、○○さんも口元を押さえて笑ってくれた。
○○「割れていない卵があります。少し小さいオムライスになってしまいますが、すぐに用意しますね」
○○さんは、台所へ向かうとすぐにオムライスを作ってくれた。
(こういうのが、幸せというのだろうか?)
彼女の後ろ姿を眺めていると、心の奥が温かくなってくる。
(ずっとこうして私の世話をしてくれないだろうか……)
(まさしく、○○さんは私の理想の奥さんだ)
不意に、頭の中に美しい言葉が次々に浮かび上がってくる。
(ああ、また新しい物語が始まる……)
彼女といる限り、私から物語は絶えず生まれてくる。
幸せ、愛しさ、妬み、苦しみ……
そんな悲喜こもごもな愛の物語の結末は、それでもハッピーエンドであってほしいと、作家のくせに、私は祈るようにそんな想いを抱いたのだった…―。
おわり。