春を待つ蓬莱に、少し冷たさをはらんだ風が吹いている…―。
―――――
楓『でもよかった。じゃあまだここにいるってことか』
○○『え……?』
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山まで行ったけれど、結局桜を見ることはできず……
挙句の果てに、○○は熱を出してしまった。
(……俺としたことが)
彼女の期待に応えられないばかりか、あまつさえ体調を悪くさせてしまった。
(それに……こんなことを言ってしまうなんて)
見舞いにきた俺が放った言葉に、彼女は小さく驚いている。
(この言葉の意味は、もう少し内緒にしていようかな)
楓「はい、薬」
○○「ありがとうございます」
無理して起き上がろうとする彼女を、手で制した。
楓「何してるの。口開けて」
○○「薬くらい一人で飲めますから……」
楓「駄目。病人は甘えてればいいの」
○○「……」
楓「はい、あーん」
小さく開かれた口に薬を運び、水を飲ませる。
○○「……ありがとうございます」
楓「どういたしまして」
再び横になった彼女は、悲しげに眉を下げた。
○○「あの……桜はまだ咲きませんか?」
懇願するような彼女の声色から、桜をどうしても見たいという思いが伝わってくる。
(だけど……もう少し、待ってて)
楓「開花が遅れているみたいで、たぶん君が滞在している間は咲かないよ」
今はまだ語るべきではないと、淡々と言葉を返す。
すると、彼女の口から小さなため息が漏れた。
○○「残念です……」
楓「一週間くらい寝込んでてもいいんだよ?」
○○「え」
驚く様子の彼女に、つい悪戯心が芽生えてしまう。
楓「それとも、もう一度風邪をひかせてあげようか」
○○「そんな……」
(もう少しこうやって、君の困った顔をみていたいけど)
(そろそろ始めないと……本当に間に合わなくなるな)
楓「冗談だよ……じゃあ、ゆっくり眠るんだよ」
○○「ありがとうございます」
名残惜しさを感じながらも静かに部屋を出て、足早に作業場へと向かった…―。
…
……
(時間が……間に合うかな)
焦る気持ちを抑えながらも、筆を滑らせていく。
(急いでいるからといって、妥協したものは作れない……)
桜を見たいという彼女の願いを、叶えてやりたい。
(どうせ見せるのならば、最高の桜を……)
頭に思い浮かんでいる絵を筆に乗せ、紙に広げていく。
神経を研ぎ澄まし、指先に集中させ……
そうして、しばらく…―。
(あれ……?)
ふと、板の間が踏まれる小さな音が聞こえたかと思うと、背中に視線を感じた。
(まったく……)
思い当たる人物に、口を開く。
楓「覗き見?」
○○「!」
遠慮なく襖を開けると、驚いた顔で俺を見上げる○○がいた。
(布団を抜け出して……いけない子だ)
○○「あ、あの」
けれど、慌てて言葉を探すかわいらしさに、口橋が自然と上がってしまう。
楓「覗き見なんていい趣味してるね。思ったよりもやらしい子なのかな」
○○「覗いてしまって、ごめんなさい。 でも、覗き見をしようしていたわけではなくて……」
差し出された瓶を見て、合点がつく。
楓「あ……」
○○「部屋に忘れていたので」
楓「俺としたことが……ありがとう。 でも、寝ていてよかったのに。こんなことのために、わざわざ……」
○○「いえ……楓さんがいなくなったお部屋は、少し寂しくて」
楓「……」
不覚にも、胸が小さく音を立てる。
(本当に……無意識なんだろうね?)
しばらく○○の顔を見つめていたけれど……
(寂しい……か)
俺は観念して彼女を部屋に招き入れることにした。
楓「中に入る?」
○○「……いいんですか?」
楓「どうぞ」
(まったく……ちゃんと完成してから見せたかったのに)
差し出された俺に手に、彼女の小さな手が遠慮がちに重ねられる。
(まあ、残りは君の前で描くのも悪くないか)
(桜が満開になる瞬間を、君と…―)
そんなことを思いながら、俺は桜の絵の前に彼女を導く。
俺と○○だけの、桜の前に……
おわり。