襖の隙間から、室内の明かりが漏れている。
私は薄暗い廊下に立ち尽くしまま、襖を開くことをためらっていた。
(楓さん……)
襖からわずかに見える楓さんの横顔がとても真剣で、声をかけることができない。
ゆっくりと視線をずらすと、楓さんの手元に筆が見えた。
(楓さん、絵を描いているんだ)
大きな机の前で、何かを熱心に描いている。
(あんなに真剣に……? 今は何を描いてるんだろう)
その絵を少しでも見たくて、視線をずらそうとした時…―。
楓「覗き見?」
○○「!」
勢いよく襖が開いて、私を見下ろす襖さんと目が合った。
○○「あ、あの」
楓さんは襖の木枠に肘をかけ、口の端を上げて笑う。
楓「覗き見なんていい趣味してるね。思ったよりもやらしい子なのかな」
私は慌てて、手にしていた瓶を差し出した。
○○「覗いてしまって、ごめんなさい。 でも、覗き見をしようしていたわけではなくて……」
楓「あ……」
○○「お部屋に忘れていたので」
楓「俺としたことが……ありがとう」
楓さんはそう言いながら、瓶を受け取った。
楓「でも、寝ていてよかったのに。こんなことのために、わざわざ……」
○○「いえ……楓さんがいなくなったお部屋は、少し寂しくて」
楓「……」
楓さんは驚いたように私を見つめながら、口元に笑みを浮かべた。
楓「中に入る?」
○○「……いいんですか?」
楓「どうぞ」
楓さんに手を差し出され、そっとその手を取る。
私は絵の具の香りが漂う部屋に、足を踏み入れる。
すると、楓さんの描いていた絵が視界に飛び込んできた。
○○「すごい……」
室内に置かれた机の上いっぱいに、紙が広げられている。
そこには、美しく咲き誇る満開の桜が描かれていた。
楓「完成するまでは秘密にしておきたかったんだけどね。 誰かさんが、あんまりにも寂しそうな顔をしていたから」
楓さんが、意地悪そうな顔で言葉を紡ぐ。
○○「……すみません」
楓「冗談だよ」
楓さんは私の背後に立ち、そっと肩に触れる。
○○「綺麗です……」
(何か、感想を言いたいのに……)
圧倒的な桜の美しさにうまく言葉にすることができず、言い淀んでしまう。
○○「本当に、すごくて……」
(まるで、そこに桜があるような……)
楓「無理しなくていいよ。熱のせいかな。顔が少し赤い」
楓さんは心配そうに私の額に触れた。
○○「大丈夫です。ただ、感動してしまっただけなので……。 でも、どうして桜を? 楓さん、桜の絵は描かないって……」
ふと沸き上がった疑問を、楓さんに問いかけてみた。
楓「ああ。描かないつもりだったよ。でも……」
不意に、背後から楓さんに包み込まれ……
熱を持った私の耳に、柔らかい口づけが落とされた。
○○「あ……」
楓「君が言ったんでしょ? 俺と桜が見たいって」
楓さんの低い声が、耳に心地よく流れ込んでくる。
―――――
○○『楓さんと、桜、見たかったです……』
―――――
○○「楓さん……」
(あの時の言葉、覚えていてくれたんだ)
(ということは……)
―――――
楓『でもよかった。じゃあまだここにいるってことか』
○○『え……?』
―――――
(あんなふうに言っていたのも、もしかして……)
楓「これは、君だけの桜。他の誰にも見せない。 ……嬉しい?」
○○「……嬉しいです」
頷くことに精一杯で、楓さんの顔を見ることができない。
目の前の桜は、まるでそよ風に花弁を揺らしているように見えた。
(風を感じる……)
(本当に、楓さんと一緒に桜を見ているみたい)
抱きしめられた体から、鼓動が伝わってくる。
楓「……体、熱いね」
(それは……熱のせいかな……)
ほのかに絵の具の香りがする楓さんの手は、やけに冷たく感じられて……
その手にそっと頭をもたせかけながら、私は桜と楓さんに心乱されていったのだった…―。
おわり。