○○が蓬莱から帰る、その前日…―。
(やっぱり咲いてなかったか)
(つぼみをつけていたから、もしかすると……って思ったけど)
再び山に行ってみたものの、やはりまだ桜は咲く様子がなかった。
―――――
○○『楓さんと、桜、見たかったです……』
―――――
残念そうな彼女の表情が忘れられない。
(あんな顔されたら……)
楓「桜……ね。 誰にも見せる気はなかったんだけどな」
腕を組み、あることを頭に思い描く。
俺が以前に一度だけ描いた、桜の絵……
(これを見て……君はどんな顔をするのかな)
先ほど、中庭で彼女と交わした言葉を思い返す。
―――――
楓『なんだ、そんなことか』
○○『え……』
楓『明日までに咲かないだろう。残念だったね』
―――――
(ちょっと、意地悪をし過ぎたかな)
悲しげに歪む彼女の顔を思い出し、少しの罪悪感が胸に募る。
(……埋め合わせってわけじゃない)
(ただ俺が、○○に桜を見せたいって思ってるんだ)
小さく息を吐いて、アトリエに向かおうと足を踏み出すと…―。
○○「楓さん」
聞き慣れた声が、俺を呼び止めたのだった…―。
…
……
そうして、彼女を連れてきた後…―。
○○「すごい……」
(驚くにはまだ早いんだけどね……)
彼女は物珍しそうに、辺りを見回し感嘆の息を漏らす。
(まったく、少しは落ち着きなよ)
クスッと笑みを浮かべながら、俺は浮き浮きとした様子の彼女に声をかけた。
楓「ここは、俺のアトリエのような場所だよ。 好きなものを描いたり作ったりして、好きなように飾っておく。 ただ自由に創作を楽しんでいる空間だ」
○○「そんな大切な場所に、私が入ってしまっていいんですか?」
楓「……うん。でも、その前に」
興味深そうに部屋を回ろうとする彼女の手を掴み、襖の奥まで連れてくる。
○○「あの……」
楓「少しの間、目をつむっていて」
○○「え?」
楓「いいから」
○○「……はい」
いざ見せるとなると、少しだけ体に緊張が走った。
彼女が静かに目を閉じたことを確認し、襖に手をかける。
(………よし)
楓「いいよ、目を開けて」
○○「……はい」
ゆっくりと彼女の瞳が開き……
○○「わぁ……」
襖が開かれた奥に鎮座する桜の木に、彼女の視線が釘付けになる。
(よかった)
きらきらと瞳を輝かせ、頬を染める彼女の顔を見て安心する。
(この顔が見たかったんだ)
○○「すごいです……本当に、桜がそこにあるみたいで。 それに……」
そこまで言いかけるけれど、次の言葉がなかなか出てこない。
(不器用だな、まったく……)
楓「無理してしゃべらなくていい。 君の顔を見れば、言いたいことはよくわかるよ」
そっと、彼女の顔を覗き込む。
(うん、いい顔だ)
けれど、彼女は顔を赤くして顔を俺から逸らしてしまう。
そして……
○○「でも、桜の絵は描かないって……」
楓「ああ……」
(そんなこと、と言いたいところだけど……どう伝えようか)
少しだけ悩んだけれど、俺は素直に伝えることにした。
楓「桜の美しさに感動して、一度だけ筆を執ったことがあったんだ。 もちろんどこにも発表する気はないし、今まで誰にも見せたことはない」
○○「誰にも……」
楓「ああ。君に、初めて見せた」
○○「……」
楓「君があんまりにもがっかりした顔をするから、どうにか桜を見せたいと思ったんだ」
胸の内を明かすと、彼女はゆっくりと口を開く。
○○「ありがとうございます……」
ぼうっとしていたら聞き逃してしまいそうなその小さな声は、震えているように聞こえた。
(……もしかして)
楓「あれ? 泣いてるの?」
○○「いえ……」
慌てて顔を伏せ恥ずかしがる様子に、悪戯心が芽生え始める。
楓「泣いてるでしょ?」
○○「そんなことないですよ」
楓「どうして泣いてるの?」
○○「だから、泣いてません……」
(はは、本当に君は……かわいいんだから)
なおも顔を隠そうとする彼女の手を掴み、そっと額に口づけた。
その距離のまま、耐えきれずに…―。
楓「まったく、君って子は……」
そっと腕の中に彼女を閉じ込める。
○○「あ、あの……」
(駄目だ、楽しくて仕方ない)
(俺は今、どんな顔をしているんだろう)
楓「君がそんな顔をするから、いじめたくなる」
○○「楓さん……」
抱きしめれば抱きしめるほどに、彼女への愛しさが込み上げてくる。
(ずっとこの腕の中に閉じ込めておきたい)
楓「もう少し、このまま……」
その想いは、隠すことなく言葉として溢れてしまう。
○○「……っ」
視線の先には、彼女だけの桜の木が風に揺れている。
(今度は、本物の桜を二人で見に行こう)
(その時君は……どんな顔を見せてくれるのかな)
少し先に待っている春を想いながら……
彼女の笑顔が花開く瞬間を思い描いていた…―。
おわり。