街から戻った後、私は楓さんと一緒に白の一角にある小さな建物へとやって来た。
(ここは……?)
床には作りかけの彫刻が置かれ、棚には表情豊かな茶碗が展示されている。
何より目を惹かれたのは、壁一面に飾られている色とりどりの絵画だった。
○○「すごい……」
楓「ここは、俺のアトリエのような場所だよ。 好きなものを描いたり作ったりして、好きなように飾っておく。 ただ自由に創作を楽しんでいる空間だ」
○○「そんな大切な場所に、私が入ってしまっていいんですか?」
楓「……うん。でも、その前に」
歩みを進めようとする私の手首を楓さんが掴み、襖の前まで連れて行かれた。
○○「あの……」
楓「少しの間、目をつむっていて」
○○「え?」
楓「いいから」
○○「……はい」
楓さんの真剣な眼差しに、思わず頷く。
(これから、何が……?)
高鳴る鼓動を感じながら、私はそっと目を閉じた。
そうして、少しの後……
楓「いいよ、目を開けて」
○○「……はい」
私は静かに目を開ける。
すると……
○○「わぁ……」
開け放たれた襖の向こうに現れたのは、美しい桜の木だった。
咲き誇る大輪の桜に、思わず感嘆の声が漏れる。
(でも、これ……)
それはよく見ると、大きな紙いっぱいに描かれた桜の水彩画だった。
春のそよ風に揺れる淡い桜色の花弁は、まるで本物のようで……
(これが、楓さんの桜の絵……)
○○「すごいです……本当に、桜がそこにあるみたいで……。 それに……」
感想を言おうとするけれど、胸がつまって上手く言葉が出てこない。
楓「無理してしゃべらなくていい」
○○「……」
楓「君の顔を見れば、言いたいことはよくわかるよ」
楓さんは微笑みを湛えながら、私の顔を覗き込んでくる。
頬が熱くなり、私は慌てて顔を逸らした。
○○「でも、桜の絵は描かないって……」
楓「ああ……」
楓さんはわずかに言い淀んだ後、口を開く。
楓「桜の美しさに感動して、一度だけ筆を執ったことがあったんだ。 もちろんどこにも発表する気はないし、今まで誰にも見せたことはない」
○○「誰にも……」
楓「ああ。君に、初めて見せた」
○○「……」
楓「君があんまりにもがっかりした顔をするから、どうにか桜を見せたいと思ったんだ」
胸が高鳴り、熱いものが込み上げてくる。
○○「ありがとうございます……」
小さな声が口からこぼれ落ち、美しく咲き誇る桜が不意ににじんだ。
楓「あれ? 泣いてるの?」
○○「いえ……」
(どうして……)
私は慌てて顔を伏せ、目元をぬぐう。
楓「泣いてるでしょ?」
○○「そんなことないですよ」
楓「どうして泣いてるの?」
○○「だから、泣いてません……」
楓さんは小さく笑いながら、私の顔を覗き込もうとする。
顔を隠そうとすると、楓さんに手を掴まれた。
○○「見ないでください」
私はなおも、楓さんから逃れようと体をよじらせる。
するとその時、柔らかな唇が私の額に触れた。
(え……)
唇を離した楓さんの顔を思わず見上げると彼はじっと私を見つめていて……
吐息がかかりそうな距離に、大きく胸が弾む。
楓「まったく、君って子は……」
楓さんは顔をほころばせると、私を優しく抱きしめた。
○○「あ、あの……」
楓さんの腕に包まれ、心臓がうるさいほど騒ぎ出す。
楓「君がそんな顔をするから、いじめたくなる」
○○「楓さん……」
楓「もう少し、このまま……」
○○「……っ」
楓さんの熱い吐息が耳をかすめ、体がぴくりと震えた。
(意地悪だけど……)
(優しい人……)
楓さんの肩越しに、桜の花弁が美しく舞い散っている。
それは、今まで目にしたどの桜よりも美しくて……
○○「楓さんとこうして一緒に桜を見ることができて、本当に嬉しいです」
私は楓さんの胸にそっと顔を摺り寄せながら、美しく咲き誇る桜が見守る前で、彼への想いを一層募らせたのだった…―。
おわり。