〇〇さんと一日だけの夫婦生活を過ごしてから、数か月後…-。
新刊の執筆を終えた私は、彼女の元へと向かっていた。
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藤目『貴方を見ていると…貴方に触れると、何とも言えない感情が湧いてくる』
〇〇『藤目さん…?』
藤目『この気持ちは…。 し、失礼』
〇〇『藤目さん…!』
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(部屋を飛び出してから、もう随分と時が経ってしまったけれど…)
(貴方は、私を待ってくれているでしょうか…)
天を仰ぎながら、あの日、執事に託した言葉を思い出す。
藤目「『有難う。取材は成功です。城で待っていてください』 ……ふふ。我ながら、なんと身勝手なんだろう」
(その癖、待っていてほしいだなんて、随分と都合のいい…)
藤目「…」
(…けれど…)
藤目「待っていてほしい。他の誰でもない、貴方に…」
落ち葉を踏みしめ、はやる心を抑えながら彼女の元へと歩みを進める。
すると…
(あれは…)
目に、庭のはずれで本を読む彼女の姿は飛び込んできた瞬間、私は思わず木陰に身を隠してしまった。
藤目「…」
(待って…くれていた)
藤目「それにしても…」
木陰から、そっと彼女の様子を伺う。
藤目「あの本…彼女の元に届いたんですね」
見覚えのある表紙を見て、無意識の内に笑みがこぼれる。
けれども…
(〇〇、さん…?)
心なしか、どこか寂しげに本を読み進める彼女を見て、胸の奥に、何とも言えない痛みが走る。
(…貴方のそんな顔は、初めて見ます)
(自惚れでなければ、その原因は…)
藤目「…。 …すみません」
(大切な貴方を一人にして…本当に、すみませんでした)
私は小さくつぶやいた後、足音を殺しながら彼女の背後へと近付く。
そして…
藤目「ー『幸福に形があるなら、きっとそれは、この暖かな料理の上のいびつなハートを指すのだろう』」
〇〇「…藤目さん…!」
私は驚きの声を上げる〇〇さんに構うことなく、彼女を後ろから抱きしめるようにして、本の続きを読む。
藤目「『彼女の作ってくれた卵料理を食べながら、私は心の中でそんなことを思う。 彼女がトマトソースで描いてくれたこの愛しい形を腹に納め、私は心から幸せだと思った…-』 …こんなふうに、貴方と暮らしたいと思う」
心からの願いを、彼女の耳元で優しく囁く。
藤目「貴方と過ごした一日で、私は知ってしまったのです。 拗ねた顔…笑い声…。 言葉にできないほど…名前をつけられないほど、愛おしいと思う気持ちを」
(それに…)
(離れている間に、思い知ったのです)
(この温もりが、どれほどまでに大切だったかということを…)
あたたかく甘やかな感情が、彼女と触れ合う場所からあふれ出してくる。
〇〇「…会いたかった…です」
(はい、私も…)
(きっと世界中の誰よりも、貴方に…)
返事の代わりに強く抱きしめた瞬間、木々が風にそよいだ。
風にページをめくられ、彼女への想いが綴られた本が閉じたその時、『無題』という題名が書かれた本の表紙が現れる。
(…題名は、ありません)
(二人で共に過ごす、人生は…これから綴られるのだから)
私は彼女の髪に顔を埋めるようにして、さらに強く抱きしめる。
もう二度と離さないと、胸の中で誓いながら…-。
おわり。