天狐の光が収まっていく…―。
同時に我の中から何かが消え失せていった。
(力を失うとは、こういうことなのか……)
(ひどく心許ないような、心に空洞ができたような……)
(なんとも言えぬ気分だ……だが)
砕牙「これで、井戸の水量も元に戻るだろう」
○○「……っ」
○○は、今にも泣きそうな顔をして、我の元へと駆けてくる。
○○「砕牙さん……人間に……?」
砕牙「うむ。これで、何千年も無駄に生きる必要は無くなった」
○○「私のせいで……」
○○の瞳に涙が浮かぶ。
我はその水滴を指で拭った。
砕牙「そのような顔をするでないと、何度も言うておろう」
(うぬを悲しませるつもりはないのだ……)
(だが、うぬはどうしても我のことを心配してしまうのだな)
(このように心優しい人間もいたものか……)
砕牙「○○……我は今、うぬを抱き締めたい」
○○「はい……っ」
我は○○を抱き寄せた。
○○の小さな体から温かさが伝わってくる。
砕牙「うぬは温かい……」
○○「砕牙さん、ごめんなさい」
砕牙「何を言うか。こんなに清々しい気分になったのは初めてだ」
その言葉に、嘘偽りはない。
(ようやく我は○○をこうやって抱くことができるのだ)
(愛しいと、声にすることができる……)
(我の中に、そのような嬉しさもあったとは)
(なんと不思議なことだろうか……)
○○の耳元にそっと唇を寄せる。
砕牙「うぬの身体は収まりが良い。まるで我のためにつくられたようだ」
(長い時を生きてきたのは、○○に会うためだったのかもしれぬな)
(我とうぬは、まるで元は一つだったような……)
そこまで考え、我に返る。
(我は……何を考えているのだ)
(どうやら、浮かれているようだ)
○○を見下ろすと、耳も首も赤く染まっていた。
砕牙「ん? どうかしたか?」
○○「な、何でもありません」
(なんとまあ、可愛らしい……)
砕牙「……○○」
○○「……何ですか?」
砕牙「昨晩うぬは、与えられた時間の中で幸せを見つけられたら、と言ったな」
○○「はい、確かに言いました」
砕牙「……我はもう見つけてしまったぞ」
○○「え?」
惜しく思いながらも、○○の体を離した。
砕牙「○○、うぬと生きることこそが我の幸せだ」
○○「砕牙さん……私をずっと傍にいさせてくれますか?」
砕牙「うぬがそれを望むなら、喜んでそうしようではないか」
急き立つ心のままに、○○を再度抱き寄せた。
○○の手が我の背をたどたどしく撫でる。
砕牙「やはり、うぬは温かいな」
○○「砕牙さんも……とても温かいです」
砕牙「そうか、温かいか」
(我はヒトになったのだ……)
(○○と同じ時を生きる人間に)
そして国を離れる日がやってきた…―。
たとえ王族と言えど、ただの人になった我が、この国にいることはできぬ。
(こうなることはわかっていた……)
そう話した時、○○はまた己を責めるような瞳をした。
(うぬのせいではないと、今日まで何度、説いたことか)
我らの歩く道に、○○が訪れた時と同じような霧雨が降る。
その雨が何を思い、我らへと降り注ぐのか、今の我にはもうわからぬ。
(我を責めているのか?)
(一人の女のために、我は力を捨てたのだ。そう思われても仕方がない)
(長い時を共に過ごしてきたのだ……)
胸にある、わずかな寂しさがうずく。
(力が消え、何の悔いもないと言えば、嘘になる)
だがその時…―。
○○「砕牙さん、見てください!」
○○が嬉しそうに空を指さす。
砕牙「どうした?」
我は空を見上げ、目を見張った。
砕牙「これは見事な……」
青空に降る霧雨の中、七色の虹が輝いていた。
砕牙「……我らを祝福してくれるか……?」
問いかけても、我には答えはわからぬ。
だが、そのような気がした…―。
砕牙「そうか……」
○○「綺麗ですね……」
砕牙「ああ……」
(なんと粋なことをしてくれる)
薄く架かる虹の彼方を、我は仰ぎ見る。
(ならば、我はもう後ろを振り向きはしない)
砕牙「○○」
○○「はい?」
砕牙「国を出たら祝言を挙げるか」
○○「祝言……!?」
○○は、驚いたように目を瞬かせる。
砕牙「嫌か?」
○○「あ……あの」
○○は顔を赤く染め、小さく首を横に振る。
○○「……いえ」
(○○はころころと表情が変わる……)
(本当に見ていて飽きぬな)
○○「う、嬉しいです!」
砕牙「そうか……」
我は○○の肩を抱き寄せ、再度虹を見上げた。
(我が空を眺める時、我の隣にはうぬがいる……)
(これが我の望んだこと)
(そうしてこの限られた時を生きよう)
(○○と共に…―)
虹の橋は遠く我らが行く先へと伸びていた…―。
おわり