藤目さんと、疑似夫婦生活を過ごすうち……
彼は時折、原稿用紙に筆を走らせるようになっていた。
けれど……
藤目「……」
そんな彼の横顔に、どこか困惑の色が浮かんでいるように思えた…-。
あまりにもいい天気だったので、私達はピクニックに出かけていた。
藤目「結婚生活というものが、少し想像できるようになりました」
書き物をしている時の人を寄せ付けない雰囲気が嘘のように、藤目さんは穏やかに笑っている。
藤目「もう少し……あと何日か、取材させてくださいね」
その言葉を聞いて、不思議と安心をする自分がいた。
藤目「ピクニックなんてはじめてです」
お弁当を広げると、藤目さんは広げたスカーフの上に嬉しそうに座る。
〇〇「今日のお弁当は、卵サンドが入ってますよ」
ここ数日一緒に過ごしたおかげで、私は藤目さんの好物をほとんど把握していた。
藤目さんはバスケットから卵サンドを取り出し、美味しそうに頬張る。
〇〇「……いいお天気ですね」
私が言うと、藤目さんはそっと目を閉じる。
藤目「『「いいお天気ですね」、彼女が言い、私ははじめて瞼の裏に陽の光を……』」
彼は、こんな風に、自分が経験したことを文章にしているようだった。
藤目「……」
〇〇「藤目さん?見てください、蝶々が飛んでますよ」
声をかけると、藤目さんが優しく私に笑いかけた。
藤目「……『彼女の笑顔が、私の…-』」
藤目さんが、文章の一節をまた紡ごうとする。
けれど…-。
藤目「……」
藤目さんが、ハッとしたように目を見開く。
藤目「……いや、やめよう」
小さな声で、彼が囁いたような気がした。
(藤目さん?)
隣から顔を覗き込むと、彼の柔らかな笑みが向けられる。
藤目「…何でもありませんよ」
彼の様子が気になりつつも、その微笑みに包み込まれると、不思議と疑問は消えていく。
長閑な午後に、私は幸せな気持ちで瞳を閉じた…―。
…
……その夜…-。
(まだ昏い……)
何となく目が覚めてしまい、私は水を飲もうと自分の寝室を出た。
(あれ……?)
居間から薄明かりが漏れているのが見える。
〇〇「藤目さん。まだ起きてたんですね」
声を掛けると、藤目さんがはっと振り返った。
彼の目の前には……大量の握り潰された原稿用紙が散らばっている。
〇〇「これ……」
私の足下に飛んで来た一枚を拾い上げると、
昼間のピクニックのことが書かれているのがわかった。
藤目「……駄目だ。 駄目なんだ……!」
藤目さんは、原稿用紙をビリビリと破きはじめる。
〇〇「藤目さん……っ!」
藤目さんを後ろから抱きしめて止めると、彼の手が震えていることがわかった。
藤目「……せっかく協力していただきましたが……私は貴方のことは書けません」
藤目さんは、今度は恐ろしく静かにつぶやく。
藤目「私は恋を知りました……それは、恐ろしいほどにドロドロとした感情だった」
〇〇「……え?」
藤目「……貴方を、愛しく思う。 貴方が愛しくて愛しくてたまらない」
震える彼の手が、私の髪をくしゃりと撫でる。
〇〇「……っ」
藤目「貴方のことを誰かに見せるなんて耐えられない…。 拗ねた顔……可愛らしい声……無邪気な笑顔。 ほんの少しでも、他の人に見せたくはない。 こんな恐ろしい気持ちを抱く男は……嫌ですか?」
どこまでも静かな声に、背筋が凍る。
〇〇「藤目……さん」
藤目「恋とは……美しいものではなかったのですね……」
苦しげに紡がれる声に、胸がひどく軋む。
藤目「貴方を……私だけの物語に閉じ込めておきたい……」
けれど、彼を拒むことなど、既に私にはできないのだった…-。
おわり。